嗅覚過敏なゆとりの申し子日記

ゆとり世代の嗅覚過敏な自分が、個人的に考えたことを綴る日記です。

『かぐや姫の物語』を再び観て

先週の金曜日、『かぐや姫の物語』がテレビで放送された。

上映されたときに自分も映画館で観ていたが、当時は未熟で、そこまで心が動かされなかった。

その後ネット上での感想を見て、『竹取物語』をビジュアル化しつつ、現代日本が抱える問題とマッチさせた素晴らしい作品であったことに気づかされた。

 

子供時代は、地球の自然に囲まれて、“人間としての幸せ”を全身で感じていたかぐや姫

しかし、翁はかぐや姫に“女性としての幸せ”を叶えてあげるべく、山里から都へと移り住み、“高貴の姫君”に相応しい躾を宮中の相模に依頼し、かぐや姫は美しい女性となった。

だが、周囲はかぐや姫を外見でしか判断せず、“人間としての幸せ”を感じることができなくなってしまった。

そして“高貴の姫君”になることを拒絶したかぐや姫は、月へと戻されるという結末だ。

 

 

ここで指す“女性としての幸せ”とは、素敵(お金持ちでイケメン)な男性と結婚すること。

そして“人間としての幸せ”とは、喜びや悲しみを他者と分かち合うことだと思う。

(月に帰るシーンで、天の女官が「月にお戻りになれば、心ざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう」という台詞に対し、かぐや姫は「喜びも悲しみも、この地に生きるものは、みんな彩りに満ちている」と反発する台詞にも表れている)

 

“女性としての幸せ”が“人間としての幸せ”とは限らない。

(相模がかぐや姫に化粧をするシーンで、「高貴の姫君は人ではないのね」と言うかぐや姫の台詞にも表れている)

その事実に、現代日本の多くの人々は、未だに気づくことができていないからこそ、高畑監督は『竹取物語』を今描くべきだと思ったのだろう。

 

 

かぐや姫の物語」が凄いところは、あれが完璧なシンデレラストーリーだということれす。貧しい生まれの少女が周囲の誰からも愛され、やがて一国の王から身も世もなく求愛される。少女漫画の王道であるにも関わらず、これほど多くの人が「何の救いもない」という。誰も「かぐや姫いいなあ」と言わない

— cdb (@C4Dbeginner) 2015年3月13日

 

このツイートにもあるように、山里で育った女性が、“高貴の姫君”のステータスを手に入れるシンデレラストーリーであるにも関わらず、観る側に帝を気持ち悪いと思わせ、かぐや姫が哀れであると思わせた描き方が素晴らしいと思った。

 

 

高畑監督は、もう一作『平家物語』を作りたいと話していたそうだ。

もし実現していたら、“男性としての幸せ”へのアンチテーゼを描こうとしていたのではないかと思うと、未完成となってしまったのが非常に惜しまれる。